自分が若い頃になくて良かったと思うもの。

・生成AI。

文章や画像を考えてくれる高度な人工知能。魅力的。

夏休みの宿題で「生成AIを読書感想文に使ってはいけません」って先生に言われたってきっと使うな。だって書けないもん。当時は読書嫌いで読書感想文の宿題は心から苦痛だった。

高校1年の夏休み最終日、ベッドに寝転がって1ページ読んだだけで寝てしまい、日が暮れてから起きてわーわー焦っていたら、見かねた母が
「文字数が少ないから」って、母の書棚から「詩集」を持ってきた。お母さん、、、そういうことではないけど、、、でも助かったよ。この詩集にしか道は残されていなかった。明日から新学期だよ。

とまあ、この事態が「生成AI」で回避できるとしたら。

「書名と著者名と高校生向け感想文、400字詰め原稿用紙3枚分でよろしく」
とか入力したら書いてくれるのかしら。
これで私の夏休み最終日や秋の読書週間が怖くなくなるならねぇ。やるな。

学校の授業もしかり。
レポートやら卒論やら、国や自治体、大学や学校の指針が
「自分で考えて自分の言葉で書きましょう」
と示した所で、どこまで正直にできるだろうか。ギリギリになって手をつけていなくて、締切が明日で、全くできていない、という状況に落ち陥ったら。。。

ということにならなくて良かった。

・SNS。

数年前まで大学生だった息子は、大学や授業、学生寮に関する情報は「Facebookを見てね」とのことだったようで、息子は
「自分はほとんどFacebook見ないから、習慣になってないから見るの忘れちゃうよ。」とぼやいていた。

私もその口で、つぶやくのも写真を投稿するのも億劫。もし私が大学生で、学生生活がSNSなしで成り立たなくなっていたとしたら。

億劫ということに加え、流れ込むありとあらゆる情報に溺れ、翻弄され、うっかり自分の事を発信したら最後、いいねの数やら批判や炎上に怯えるに違いない。

今なら「歳で億劫だから見ないやらない」ができるでしょ。使えない人のためのツール、テレビやラジオや新聞もまだある。

良かったよ。今オバサンで。

・増え続ける授業科目。

今や「情報」という授業が始まり、
高校受験に「スピーキング」が追加され、小学校でプログラミングや英会話を学ぶ。タブレットを一人1台持って学習する。宿題もタブレットで提出する。
黒板が学校からなくなる日も近いのだろうか。

将来のために「投資」まで学ぶらしい。私は投資より、これから死ぬまでこのくらいお金がかかるだろうから、心得ておいてね、って教えたほうが良いと思うけど、そんな事したら若者は生きていくのがつまらなくなってしまうかしら。

国語算数理科社会+英語では終わらない。受験科目や内容も増えていくのだろうか。
私、こんなにたくさん勉強できない。

昭和の生まれでホッとしている。

・世界は止まれない。

特効薬には必ず副作用があるのと同じで、世の中のためにどんなに便利な物が開発されてもそれは必ず負の側面と表裏一体。甘い蜜を吸ってしまったら、副作用があっても逃れることはもう不可能。

だから「上手に使いましょう」とか「作文、レポートには使わないでね」とか「正しい使い方」(正しいとは?)とか、事前に制御しようとするんだけど、

大人が作っておいて、使うだけ使っていて、子供は指くわえて見ているだけね、ってなったら大人はずるいよ。

最近は高校の部活動の練習メニューをAIの助けを借りて作るところが現れたって。ほら、大人は自分で使いたかったら使えるわけじゃん。

使いましょう前提でこれから生きるしかないんじゃない?制御できる段階ではもはやないと思うのだけどな。翻弄され、支配されてしまうだろうな。

使う人は使うし使わない人は使わない。
世界はもう止まらないでしょ。