薬師寺東京別院へ「写経」に通う

東京五反田、高台にある閑静な住宅街。奈良薬師寺「東京別院」にて「写経」修行

私が写経に通う理由

「悲観的、後悔、怒り、悪意、欲」といった後ろ向きな感情に覆われがちな、ざわざわした自分の心を、写経をする時間を持つことで一時的で構わないから一旦「脇」に置きたいから

「写経」とは般若心経262文字を書き写すこと。もともとは印刷技術のない時代に仏様の教えを広めるために欠かせないものとして行われていた。
現在は祈願成就や供養、心を整える、等様々な目的で、私を含め多くの人々が行える修行になっている。

薬師寺東京別院での「お写経」は毎日行われていて、予約も必要なく、誰でも行うことができる。写経のための道具も用意されている。お写経を行うお堂に静かに人が入ってきてお写経を始め、その傍らで写し終えた人が静かにお堂から退出していく。そんな時間が一日続く。

納める納経料(2,000円)は【白鳳伽藍復興のためのお写経勧進】として薬師寺の修繕、復興に充てられ、お納めした写経は納経蔵に永代安置される。

書いたら持ち帰るのだとばかり思っていたので、自分のためと思っていたお写経が薬師寺に納められ、無力な私でも勧進としてお寺のために僅かでも役立つ事を知り、とてもうれしくなった。

写経は様々なところで行われていて、お寺だけでなくカルチャーセンター等で写経講座を開講している所もある。
本もたくさん出版されているし、お手本を取り寄せて自宅で行うこともできるが、私は自分の周囲に存在する物から距離をおき、物理的に「ただその空間に身を置く」状態になりたくて、通っている。

「脇に置く」というのは、自分から消し去ることができないから。
キレイな心だけを持って生きていくなんてそうそうできるものではない。

もちろん消すことができてキレイな心でいられるものならと努力はするものの、そういった感情を可能な限り表に出さないようにするのが精一杯。
表に出さないだけでもましなほうで、できないことのほうが多い。それで心の中はいつも真っ黒。

では、お写経に取り組んでいる間は心を「無」に。なんて簡単にはいかない。
まずお写経の場に来たことに満足し「いい気(驕り)」になる。その時点で「欲」が消せていない。

お写経を始めたら始めたで、墨はにじむし、文字が太くてなんの文字なのか判別不能だし、少しだけ墨を筆につければ今度はかすれた文字になる。キレイに書けない、力が入って肩が痛くなってきた、となる。

蚊がまとわりついてきてパチン!とつぶそうとしたが、仏教は不殺生だと気づき寸前で手を止めたり、普段家ではパチンパチンやっているのにお寺でだけ不殺生なんて、自分はなんて浅はかだと後悔したり。
集中できないものなのだ。

後ろ向きな汚れた心は「脇に置けた」のか

それで、後ろ向きな汚れた心が「脇に置けたか」といえば、墨がにじんだだのかすれただの、肩が痛い、蚊に刺された!なんてことになりながらも、書き写すことに必死で色々考えている場合ではなかった。
と考えると、いくらかは置けていたと言えるのか。(そういう事でいいのかはわからない)

それでも2時間、ザワザワした世界から離れ、静かな空間でお線香と墨の香りに囲まれて過ごすのは、私にとっては心地良い時間だったのだよ。